美しい日本……日本人として知っておきたいお話

「戦いが終われば敵も味方もない、全員救助せよ」

  • 敵国イギリス軍艦の乗員全員を救助した日本の艦長(昭和17・1942)
  • 敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長 1942(昭和17)年3月1日、哨戒中の日本海軍駆逐艦「雷(いかづち)」は、ジャワ島沖で沈みかけたボートや筏につかまって漂流している多数の英国海軍将兵を発見しました。それは前日のスラバヤ沖海戦で日本帝国海軍と交戦して撃沈された英国海軍巡洋艦「エクゼター」と「エンカウンター」の将兵450名でした。

    すでに漂流者たちは生存の限界に達し、絶望のあまり自決のための毒薬さえ飲もうとする者もいました。そのような時、彼等の前に日本の駆逐艦が現れたのです。日本軍は残虐だと聞かされていた漂流者たちは、機銃掃射を受けることを予想して最期を覚悟しました。

    次第に漂流者たちとの距離を縮める「雷」の艦上では、工藤俊作艦長がかろうじて筏や漂流物にしがみついている多数の英国海軍将兵の様子から、彼等がすでに戦闘能力を失っているばかりか生命の危機にさらされていることを知り、救助か否かの決断を迫られます。

    しかし、「雷」の乗員220名に対し漂流者は450人以上、短時間で済む救助活動ではありません。しかも、この海域には敵潜水艦が出没し、艦を停止させることは自殺行為に等しかったのです。しかし、艦長工藤俊作少佐(当時41歳)は敵潜水艦への対処として戦闘態勢を維持するとともに、漂流者の救助を決断して次のように命令を発しました。「敵兵を救助せよ。」

    メインマストに「救助活動中」を示す国際信号旗が揚がったとき、「エンカウンター」の砲術士官であった海軍中尉サムエル・フォールは、「夢ではないか」と思ったそうです。 工藤艦長は、敵潜水艦から攻撃を受ける危険な海域であったにもかかわらず、「戦いが終われば敵も味方もない、全員救助せよ」と部下に命じ、自艦を停止させてイギリス兵の救助にあたらせました。

    「雷」から縄ばしごが下ろされます。しかし、漂流者は自力で縄ばしごを登れず、差し出された竹竿をつかむ体力すらありません。工藤艦長は漂流者の体力が限界に近づいていることを知り、「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意!」と命じました。警戒要因さえも救助活動に投入したのです。「雷」からは下士官数名が海に飛び込んでイギリス兵をロープで結んで引き上げるなど、もはや敵も味方もない光景が繰り広げられました。

    さらに工藤艦長は、「漂流者を全員救助する、一人も見逃すな」と、終日近辺の海域をくまなく捜索しました。戦闘海域での救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受けて命取りになります。しかし工藤艦長は四散した漂流者を捜し求めて終日行動し、たとえ一人でも漂流者を発見すれば艦を停止させて救助しました。その結果、合計422名のイギリス兵が救助されたのでした。

    救助活動が一段落したとき、工藤艦長は英海軍士官全員を前甲板に集め、「貴官等はよく戦った、貴官等は日本帝国海軍のゲストである」とねぎらい、食料のほとんどを供出して歓待しました。救助されたイギリス兵は、翌日オランダの病院船に引き渡され、無事本国に戻ることが出来ました。工藤艦長はその後転属となって「雷」を離れましたが、「雷」はその後の戦闘で撃沈され、このとき救助に携わった乗組員は全員戦死してしまいました。工藤艦長は軍を退役した後も戦後も何も語らなかったので、日本ではこの話は広がることはありませんでした。

    救助された「エンカウンター」砲術士官であった海軍中尉サムエル・フォール氏は、戦後外交官として活躍して「サー」の称号も得ていました。彼は『ありがとう武士道』という本を著すとともに、恩人の工藤艦長の消息を探し続けていました。2003年に工藤艦長の消息を調べるために日本を訪れましたが、依然として恩人の行方はつかめませんでした。しかし、この時サー・フォール氏の話を聞いて感動した元自衛官惠隆之介氏が著書『敵兵を救助せよ』を出版して、戦時中の事実が日本でも初めて知られることとなりました。

    5年後の2008年にサー・フォール氏はようやく工藤艦長の消息を掴みましたが、すでに工藤氏は他界しており、フォール氏はその年の記念法要に来日して恩人の墓に献花、念願の再会を果たしました。「救助の旗が揚がった時は夢かと思いました。彼等は敵である私たちを全力で助けてくれました。困っている人がいればたとえ敵であっても全力で救う、それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです。」

    ★YouTube動画「これが日本人の武士道精神 日本軍人 工藤俊作艦長の話」