美しい日本……日本人として知っておきたいお話

「日本は天国みたいなところだった」

  • シベリアのポーランド孤児救出(大正9・1920~大正11・1922)
  • ワルシャワの秋 [DVD] 大正時代の日本は世界に誇れるすばらしいことをしていました。ロシア革命後の内乱のためにシベリアに取り残されていたポーランド人孤児765名をシベリア出兵中の日本軍が救出し、日本で手厚く看護して帰国させたのです。

    ポーランドは1918年まで帝政ロシアの支配下にあり、多くのポーランド愛国者が政治犯として家族とともに極寒のシベリアに流されていました。第一次大戦の後、ロシア帝国は革命によって倒れ、1919年にポーランドはようやく独立を回復しました。

    しかし、ロシアは革命の内戦で混乱していた上に、まもなくポーランドとロシアの間で戦争も始まり、十数万人のポーランド人が帰国する術もなく混乱の中でシベリアに取り残されてしまいました。特に、親を失った子供たちは、飢餓や伝染病で衰弱するなど悲惨な状況にありました。正確な数は不明ですが、当時、3000人以上の孤児たちがシベリアに取り残されていたということです。

    ポーランドの新政府は、せめて子供たちだけでも祖国に連れ帰りたいと欧米各国に救助を 求めたのですが、その要請はことごとく拒否され、最後に日本赤十字にに援助を求めてきました。日本の外務省は日本赤十字社に働きかけ、わずか16日後にはシベリア孤児救済が決定されました。独立間もないポーランドとはまだ外交関係のなかったことを考えれば、驚くべき早さでした。

    日本政府はシベリア出兵中の陸軍に孤児救出を命じ、日本陸軍と赤十字の救出隊はマイナス40度にもなる極寒のシベリア奥地に分け入って孤児の救出にあたりました。そして2週間後には56名の孤児を救出、翌1921年まで5回の捜索活動で孤児375名を救出しました。さらに翌1922年夏には第二次救済事業として3回の救出活動を行い、390名を救い出しました。最終的に3年間で合計765名の孤児が救出され、神戸や横浜の病院で手当を受けました。

    孤児たちの治療と療育は手厚く行われ、中には腸チフスの子供を看護して自らも感染し、殉職した看護婦もいたほどでした。病院に預けられた孤児たちのもとには、全国からあたたかい贈り物や支援金が寄せられ、治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到しました。後に孤児たちは当時を思い出して、「支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰って感動した」「日本人の医者が特別に痩せていた私を心配して栄養剤をいっぱいくれたけれど、とても美味しかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかった」「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に看護婦さんがキスをして微笑んでくれた」「このキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していた」ことなどを懐かしく語っています。

    やがて元気を回復した子どもたちは、アメリカなどを経由してポーランドに帰国する日になりました。出発前には各自の洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮して毛糸のチョッキが支給されました。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をしました。日本を去る日、孤児たちは医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかったそうです。孤児の一人で2006年に亡くなられたアントニーナ・リロさんは、6歳の時にロシア極東のウラジオストクで保護され、大阪で2週間過ごした後、母国ポーランドに戻りました。生前はすしが大好物で、「日本は天国みたいなところだった」と感謝していたそうです。また、リロさんは、第二次世界大戦中にポーランドでユダヤ人を助け、イスラエル政府から賞を授与されています。「日本人に助けられたので、今度は私がユダヤ人を助けてお返しした」と話していました。

    帰国した孤児達の一人、イエジ・ストシャウコフスキさんはその後も波乱に富んだ人生を送ります。孤児として救出されたイエジ少年は、祖国に帰国後、孤児院で働きながらワルシャワ大学を卒業、孤児教育に情熱を注ぎました。17歳の時にはシベリア孤児経験者の会「極東青年会」を組織し、日本の素晴らしさをポーランドに紹介する活動を続けました。極東青年会は、最盛期には640名を数えました。

    平和な時もつかの間、1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、イエジ青年は極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動への参加を決定しました。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と呼ばれました。この組織は本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、1万数千名を数える大きな組織に膨れあがっていきました。

    しかし、やがてイエジキ部隊にもナチスの監視の目が光り始め、ある日、多数のドイツ兵が、孤児院に押し入り強制捜査を始めました。急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、「この孤児院は日本帝国大使館が保護している」ことを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たち、このドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と依頼します。するとイエジたちは立ちあがり、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱します。ドイツ兵は、あっけにとられて立ち去って行きました。当時の日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない状況だったのです。日本大使館は、このようにイエジキ部隊を幾度となく守っていました。

    しかし、兵力で圧倒的に勝るドイツ軍への抵抗は長く続きませんでした。部隊の関係者は徹底的に弾圧され、イエジも再びシベリアに送られてしまいます。二度のシベリア流刑を生き延びたイエジさんは、1983年(昭和58年)、念願の日本訪問を果たしました。このときすでに76歳でした。イエジ・ストシャウコフスキさんは、日本赤十字社大阪府支部を訪れ、「64年前、私たち孤児が日本の皆さんや日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたくて来ました。ありがとうございました。」と大粒の涙を拭おうともせず、次のように感謝の気持を伝えたのでした。

    「我々は日本の恩を忘れません。日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種です。しかし、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々はその恩を忘れることはありません。我々の子供たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、指輪までもポーランドの子供たちに与えようとしました。こんなことは一度や二度ではありませんでした。ポーランド国民もまた高尚な国民であり、我々はいつまでも恩を忘れることはありません。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られています。ここにポーランド国民は、日本に対する最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い恩、最も温かい友情を持っていることをお伝えしたいのです。」


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    ★ポーランド点描(親日感情の背景)