美しい日本……日本人として知っておきたいお話

「私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」

  • 「命のビザ」によって多くのユダヤ難民を救出した外交官(昭和15・1940)
  • 新版 六千人の命のビザ 1940年、リトアニアのカウナス領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝(ちうね)が、ナチス・ドイツの迫害によって欧州各地から逃れてきた多数のユダヤ系難民の窮状に同情、大量のビザ(通過査証)を発給しておよそ6,000人にのぼる避難民を救ったというお話です。

    1937(昭和12)年にフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任した千畝は、次いで1939年(昭和14)年にはリトアニアのカウナス日本領事館の領事代理として赴任しました。1939年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、短期間にポーランドの西半分を占領してしまいます。ほぼ同時にソ連も東からポーランドに侵攻、翌年にはリトアニアもソ連に占領されてしまいます。

    当時、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに多くのユダヤ系難民が避難していました。難民たちはより安全な第三国へ脱出するために各国のビザを取得しようとしていましたが、ソ連の圧力によって各国の大使館や領事館は次々に閉鎖されていき、通過ビザを求める多くの難民がまだ業務を続けていた日本領事館に殺到するようになりました。

    1940年7月18日の早朝、千畝は日本領事館前に殺到して立ち去ろうとしない難民の代表から話を聞き、その窮状に同情します。しかし、ドイツとの同盟関係締結に向かっていた日本政府の了承を取り付けることが困難であることは明白でした。それでも、千畝は人道上の支援をすることが日本の国益にかなうとの信念をもって外務省にビザ発給許可を求める至急電を打ちます。

    しかし、日本からの返電は予想通り「難民への通過ビザは発給しないよう」という内容でした。カウナスの現場で千畝は多くの人命が危機にさらされていることを実感していたのですが、遠く離れた日本の外務省にはそれが理解できなかったのです。杉原は苦悩の末、領事の権限でビザを発給することを決断します。人道上拒否することができないという理由で、受給要件を満たしていない難民に対しても通過ビザを発給することにしたのです。

    すでにソ連政府からは領事館の閉鎖と国外退去の日を指定されており、その期限まで一ヶ月もありませんでした。千畝はただ一人、寝る間も惜しんでビザを書き続けましたが、領事館を閉ざす日になっても領事館の前の道路はビザを求める難民たちで埋め尽くされていました。領事館を退去した千畝はホテルに移り、ベルリンへの列車が発車するまでホテルでビザを書き続けます。最後には駅のホームや出発間際の列車内でも差し出されるビザにサインをし続けたのでした。千畝は発給の効率を上げるために2000通ほど発行した段階でリストを記録することを止めているため正確な発行数は不明ですが、おそらく全部で6千通ぐらいのビザを発給したのではないかと言われています。

    カウナスを退去した千畝は、プラハ、ケーニヒスベルク(東プロイセン)での勤務を経てブカレスト公使館に着任しますが、ここで終戦を迎え、ソ連軍に身柄を拘束されて一家は約1年の収容所生活を送ります。ようやく自由の身になって日本に帰国出来たのは1947(昭和22)年の春でした。しかし、日本で千畝を待っていたのは冷酷な現実でした。本省の指示に従わずに通過ビザを発給した件が問題にされ、外務省を追われてしまったのです。

    戦後の日本の外務省では千畝の人道的な行為を認めることなく、杉原千畝という外交官が存在したことすら隠そうとしていたような形跡があるそうです。「命のビザ」によって助かった多くのユダヤ人が日本の外務省に千畝の住所や連絡先を尋ねたのですが、外務省は「そんな外交官はいない」とつっぱねたのです。

    しかし、千畝が蒔いた善意の種は着実に育っていました。十数年後、千畝のビザによって命を救われたイスラエル人がようやく千畝と連絡をとることができ、二人は日本のイスラエル大使館で面会することができました。さらに十数年後にはイスラエルの宗教大臣となっていたかつての難民とイスラエルで再開を果たし、そのとき初めて千畝が失職覚悟であのビザを発給したことが明らかになりました。元難民たちの間で戦後の日本政府が杉原という外交官の名誉を損なっているという声があがります。

    1985(昭和60)年、イスラエル政府は多くのユダヤ人を救出した功績で「ヤド・バシェム賞」を授与し、以後千畝の功績が賞賛とともに世界に知られるようになったのです。杉原千畝は1986(昭和61)年に86歳でその生涯を閉じましたが、生前「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と語っていたそうです。