美しい日本……日本人として知っておきたいお話
「日本はドイツの属国に非ず! 非人道的な国策に協力すべき理由はない」
- ナチスの迫害から多くのユダヤ人を救出した日本軍人(昭和13・1938)
「命のビザ」で有名な杉原千畝がユダヤ難民を救済した話は有名ですが、その2年前に日本の軍人が多数のユダヤ難民を救っていました。関東軍情報部長として満州のハルビンにいた樋口季一郎少将(後に中将)です。
昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ難民が、満州国境に近いシベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)で足止めされていました。満州国が、ドイツと日本の関係を考慮してユダヤ難民の入国を拒んでいたのです。難民の数は週一便の列車が着くたびに増えていき、200人を超す人たちが行き場を失って困窮していました。
当時、関東軍の情報部長であった樋口季一郎少将はこの知らせを受け、満州鉄道総裁であった松岡洋右と交渉して救援列車を差し向け、厳寒の野天で困窮していたユダヤ難民を保護したのです。そして、部下に命じて食料・衣類・燃料を配給するとともに、病人の治療や介護にあたらせました。十数人の凍死者と二十数名の病人が出たものの、約200名のユダヤ人が救出されたのです。救援がもう一日遅れたら更に多くの人の命が失われただろうと言われています。
日本軍がユダヤ難民を救助したという情報はすぐにドイツの知る所となり、ドイツ政府から厳重な抗議が届きました。関東軍司令部に呼び出された樋口少将は、上司であった東条英機中将に言います。「ユダヤ難民の救済は当然なる人道上の配慮によって行ったものであり、日本も満州もドイツの属国ではないのですから、ドイツの非人道的な国策に協力すべき理由はないはずです」と、東条中将は樋口の理にかなった説明に共感し、政府に対してこの問題を不問に付し、ドイツの抗議をはねつけるよう上申しました。
以後昭和16年頃まで、満州を通過して上海などの安全地帯に向かうこのルートは、ヒグチ・ルートとして難民の脱出経路となり、多くのユダヤ人の命が救われました。正確な数は不明ですが、数千人から二万人にも及ぶ人々がこのルートによって安全な国に亡命したと言われています。
「オトポール事件」と呼ばれるこの一連の出来事では樋口少将の決断によって多くの命が救われたのですが、彼の英断を支持した人々のことも忘れてはならないと思います。救援列車をすぐに差し向けることに同意した満州鉄道総裁松岡洋右、樋口少将の説明に共感してユダヤ難民受け容れを政府に上申した関東軍参謀長東条英機、その要請を了承してドイツ政府の抗議をはねつけた陸軍大臣板垣征四郎、この三人の優れた人々は国際的にも賞賛される人道的な行為を決定し、日本政府がユダヤ難民の保護を国策として決定する要因となったのでした。にもかかわらず、戦後の東京裁判ではA級戦犯として罪を問われることになったのです。どこかがおかしい、何かが間違っているとしか思えません。
なお、樋口少将はこの翌年中将に昇進し、その3年後の1942(昭和17年)には札幌にあった北部軍司令官として北方守備の責任者となります。そして1943(昭和18)年7月29日にキスカ島からの守備隊撤収作戦を指揮し、島を包囲していた圧倒的優勢な連合軍に全く気づかれずに守備隊全員の撤収を成功させました。「奇跡の作戦」と呼ばれています。
さらに、1945年8月18日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が突如千島列島東端の占守島を攻撃してきたとき、司令官の樋口季一郎中将は「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出し、火事場泥棒の如きソ連軍の攻撃に対して徹底抗戦を命じたのでした。守備隊は一歩も退かずにソ連軍に大打撃を与えました。4日後に日本側が降伏して戦闘が終わったとき、ソ連軍は日本側の数倍にも及ぶ戦死者を出していたと言われています。そのため、日本の頑強な抵抗力が健在であることを知ったソ連は、当初企てていた北海道占領を諦めたとされています。樋口司令官の決断が、米ソによる東西分断の危機から日本を守ったのです。


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